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「経済」 と 「経営」 と 「貨幣」について

「経済」と「経営」と「貨幣」 


「働く貧乏人」を作れば「富者」が生まれる。



Ⅰ 現状(今と近未来)

 この所アメリカ発のグローバリズム経済体制を取った先進国が、一様に閉塞状態に陥っている。本家アメリカに於いても金融業界のリストラに遇った労働者を中心にデモが起きているとの報道が伝わってきました。
ヨーロッパに於いても数カ国の国債が不安定化しています、これらはその要因の大きな部分が同一の経済システムの欠陥から来ているのです。
 これは現在主流と言われている経済理論の根本に恣意的に欠落されている要項がある為です、その為ケインズ政策を取れば借金の山で財政不安しかもデフレからは抜け出せない。これは旧来の風上への貨幣供給を遣っているからなのです、後述しますが現在の経済システムのまま風上に投入しても風上で不動化するだけなのです。
 古典派(市場原理)政策を取れば貧富の拡大は止められず社会不安の増大に見舞われると、まさに閉塞状態に陥っている。

 現在の貨幣市場資本主義システム自体が巨大なネズミ講(無限連鎖商法)なのですから当然の帰結では有るのですが、抜け出す方法が無い訳では有りません原因から眼を逸らすことなく見詰めれば解決方法は自ずと明らかなのです。
 ただ、社会に影響力を持っている人々(既成勢力)に取っては如何しても世間知とされたくない事なのです。それは経済の基本は「『物々交換』であり、『貨幣』は交換の仲立ちするだけなのだ」と言う基本です。(・1-74P)

☆「私の商品」と「貴方の商品」を交換する、これが経済なのです。(図・1)

        →投機市場↓
       ↑     ←     
      「経                  済」
  (商品 → 貨幣)     >     (貨幣 → 商品)

商品を生産し供給し貨幣を得た人が其の侭貨幣を持っていては経済の「経」でしかない訳です、その貨幣を他の人が生産し供給した商品と交換して初めて「経済」と成るのです。
 自由を至高の社会原理とするリバータリアンも否定しない「自己に許される自由とは他人の同じ自由を阻害しない範囲」なる原則に照らしても、他人の経済参加を阻害する貨幣の握り込み(貨幣の凍結)は許されないのが経済なのです。

☆貨幣を交換財とする経済では、貨幣の集中偏在を許しては経済自体が崩壊する。
(一般的に貨幣自体への寄生は 社会主義 < 自由主義 < 新自由主義 と言う傾向を持つ
      社会自体への寄生は 社会主義 > 自由主義 > 新自由主義 と言う傾向を持つ。)

 社会への寄生は声高に指摘され政治的・法的に対処され易いものです、「官僚のタカリ」等も隠蔽の努力の割には露見し易く国民の眼に見えるのですが、「貨幣への寄生」は認識される事すら稀なのです。現在ではネット上のデーター移動だけですから国民の眼に映り難いのも当然かもしれません。
 貨幣市場資本主義システムは投下資本+Aと言う余剰利益を得る事を目的としています、「供給便益(商品原価)-投下資本=余剰利益」と言う事です。この利益が全額消費(投資を含む)されれば資源制約を考慮しない限り永久循環する事になりますが、その一部でもこの循環から外れればその分だけ循環規模は小さくなります。因みに、日本においては戦後一貫して毎年GDPの約4%が金融資産として貯蓄され続けているのです、その分だけは輸出消費されない限り経済の縮小を引き起こすわけですし、これが継続されていれば「円」高傾向からは逃れられない訳です。
更に国内がデフレの現在ではこの貯蓄された貨幣は海外で投機運用され国際収支の中の所得収支の黒字を生んでいます、これは国内での消費原資とは無関係の上国内に還流した時には円高要因となるのです。その所為で輸出競争力が殺がれると、生産効率を上げる為の合理化・コストカット(人件費削減)として更に国内消費力を奪う事になります。(2012/1/14日現在、海外での金融不安に伴い還流=円高傾向にあります)
 生活経済市場において供給が不足しインフレ傾向を持っていれば、貯蓄された貨幣は直ちに金融機関を通して設備投資や人的投資として生活経済市場に還流されますから次期の生産に繋がり雇用も維持されその賃金が更に消費原資と成り生活経済の循環を維持させるのです。(・1-43P)
 貨幣市場資本主義が永続的に機能する為には絶対条件が有るのです、それは全ての所得(貨幣)が消費(投資を含む)され無ければならない、と言うことです。商品生産し供給し所得された貨幣は、その所有者により消費交換で次の所有者に移転されなければ(詰まり退蔵されれば)その分だけ次期の生産が減少してしまうのです。「貨幣」と「実需される商品」以外、例えば「貨幣と貨幣」や「実需されない商品(投機目的)と貨幣」の交換とは「貨幣経済」の癌のような物で、「貨幣経済への寄生行為」なのです。
 生活経済市場から見た場合、投機市場にある貨幣とは退蔵・凍結されているのと同じ事なのです、投機者と投機者の間で転々とする様は内部だけの事であり外部である生活経済市場に出て来るのは稀であり出た時は対象物価格の乱高下を齎すだけでそれは寄生行為に過ぎないのです。
 マネーゲームである「投機」は生産にも消費にも関わらない、当にマネーゲームでですから生活経済市場へは良い影響は絶対に無いのです。「投機市場」と「生活経済市場」とは隔離された全く異次元に存在すると考えなければ成らないのです。
 この二つの市場を同一次元に有るとする新自由主義経済システムとは「働く貧乏人を大量生産する事で、富者を作り出している」のが実態なのです。
自由競争で循環が確保されるのは、その結果所得した貨幣がいずれかの経路で短期に生活市場に還流される事が前提条件なのです。

2014/3/8追記

 AIJ投資顧問による基金の蒸発も投機行為を奨励した結果に依ります、社保庁OBの関与は別途相変わらずの官僚による寄生問題ですが、企業労働者の年金基金は本来社会の経済基盤へ投資され、あらたな雇用を創出し生活市場での経済活動を活発化させる役目を果たさなければならないのです、投機市場へ投入されたのではその分失業を生み出してしまいます。そこで本当に収益を生み出したとしたらその収益分は重ねて失業を生み出すのです、なぜならこの資金は年金基金ですが増えたとしてもその多くは口座に留まり直ちに消費と言う生活市場への還流はしないからです。何れは年金として払い戻されその時点では生活資金として生活経済市場へ還流するとしても、その数十年間は失業者の増大要因となるのです。
 まして収益が上がっているとすれば現実的には更なる収益の上積みを狙って再度投機市場へ還流したでしょう。
投機による収益とは、新たな生活上の価値を生産する事無く単に他人の貨幣を収奪しているに過ぎないのです、勿論一応現行法上は合法です、制度的に合法化されているのですから。しかし、生活経済市場から見れば明らかに収奪であり貨幣経済システムへの寄生である事からは逃れられません。
(図・1)の 「経 から 済」までの期間は失業者が存在せざるを得ないからです。 
 この様なマネーゲーム・博打を金融機関が預かった他人の資金で行う事は禁止しなければ成らないでしょう。

<追記、ここまで>

 学会に於いては「貨幣」に触れる事はタブー視されているようです、「アカデミックな環境を失いたくないなら貨幣には触れるな!」等と陰で圧力が掛かるとの噂も聞きます、事はそれほど経済の基本に関わる事なのです。


Ⅱ 貨幣の性格

◆「原始経済」から「交換の発生」へ

 人類の歴史上に経済が登場したのは何時でしょうか、原始経済は「自給自足」で有ったのは間違い無いでしょう、そこには生産と消費だけで交換は有りません。社会の最小単位は家族ですから、初期の分業は最初から有ったと思われます。男性は狩りに女性は子供の面倒を見ながら木の実を採取する、程度であったかもしれませんが、何がしかの分業は存在していた訳です。
 その「分業」は熟練を招きます、すると効率が上がり一日掛かりで家族分を満たしていた物が、少し余計に生産出来て保存のきく物であれば蓄積したでしょう。保存のきか無い物であれば、余分になった時間を他の用途に振り向ける事が出来、どちらにしても少しは生活に余裕を齎したと思われます。

 その家族が集落に住んでいれば他の家族が居ます、貴方が少しだけ余計に生産した物が不足しているお隣の家族が居たとします、そこでは贈与経済も出現したでしょう。ここから現代経済の基本形が出来上がります、即ち、生産・交換・消費の三つが揃った訳です。
 贈与経済における交換は物対物の交換では無く、物は贈与され替りに受け取るのは「心」です、これは現代でも同じです。勿論、状況次第で贈り主と受け手が入れ替わる事が多かったでしょう、お返しと言われる行為です。その結果、思い遣りや感謝・尊敬と言った人間特有の情緒が強化され、コミュニティーとしての絆も強化されたと思われます。
(この時点では生産物に価格はまだ有りません。)


◆「市場と貨幣」

 集落の近くには他の集落も有ったでしょう、或いは、山を越えた少し環境条件の違った場所に立地する集落が有ったかもしれません。その場合、生産に影響する自然条件も違いが有って、特産品も生まれたかもしれません。
 すると市場が発生し物々交換が行われます(ここで価格は発生します)、若しかする原型貨幣も登場してきます、こうなると規模こそ違えど殆ど形だけは、今我々が経験している現代経済と変わらなくなってきます。一致としないのは経済規模だけでなく、この時点では貨幣は物と物の交換を「仲立ち」するだけだからです、「貨幣」それ自体が取引対象とは成っていないのです。
 この時点では、貨幣は当に貨幣の三機能と言われる「交換・尺度・保蔵」しか持っていません、だから「生活経済」の活性化・効率化に対して無条件に有効だったのです。
 忘れて成らないのは経済の基本「『物々交換』であり、『貨幣』は交換の仲立ちするだけなのだ」と言う事です、「貨幣価格」に囚われ過ぎるとこの基本を忘れてしまい後で述べます、「経営の論理」を「経済政策」に持ち込み現在の様な出口の無いデフレ政策を羅列して立ち尽くす事に成ります。


◆「生産・交換・消費と失業」

 経済は、「総生産=総所得=総消費」で無ければ成らずこのバランスを壊せば誰かが貧乏籤を引かされるのです。「総生産<総消費」であればインフレを招くし、「総生産>総消費」であればデフレを招きます。貨幣は「総生産={貨幣(量×速度)}=総消費」としてこの交換の仲立ちをする利便性を提供するだけであれば良いのですが、保蔵性と言う機能をも併せ持つのでこれを悪用する者が出て来るのです。貨幣の三機能と言われる「交換・尺度・保蔵」の内、この保蔵は更に増殖に繋がります。貨幣の持つこの保蔵と増殖は実体経済・生活経済市場とは全く隔離された投機市場へ投入され、資産運用等と体裁の良い名前に摩り替えて正当性を主張します。これは近代に成り新たに悪用され出した、貨幣の発明段階には想定されなかったであろう重大欠陥です。投機は「生産→消費」の仲立ちとは無関係な、生活経済への「寄生機能」と言わざるを得ません。
 近年では橋本政権による所謂「金融ビッグバン」により国境という防護設備すら破壊されて、その被害は地球規模と成っています。

 総生産量が総需要量を越えた時、輸出用を除けば其の後の生産性の向上は新自由主義国では経済の衰退を招くのです。何故なら新たな生産性の向上分の多くは消費分配を伴う事無く、又、「労働時間の短縮」でも無く「生産時間の短縮」詰まり「失業」として、その殆どが余剰利益と言う「貨幣の蓄積」の増加を齎すからです。
 インフレ状態(生産不足)に有る時なら短期で商品の増産のために直接、間接(金融機関)に設備投資或いは人的投資に充てられ其の貨幣は又生活市場に還流されるでしょう、しかし消費原資の分配が極端に減少し需要の潜在化が深化してしまったデフレスパイラルの現状では企業や個人の留保分の貨幣は「資産運用」と言う「投機市場」に投入され凍結されてしまいます。又、輸出は我が国の様に多すぎれば為替レートの騰貴を招き、我が国の地勢的特徴から生産性の制限を受ける産業等の崩壊を引き起こします。

 今単一商品経済として考えて見ましょう、一家族4人として一人の労働者がその生活を賄い企業利益分をも賄うのに6人分の商品を生産をしているとします、この時生産効率の劇的な効率化が齎されて10人分の生産が可能と成ったとします。現在の日本の政治状況ではこの余剰生産分の内、一人分は競争力強化(自社商品消費量増大)の為に消費者還元に回されるでしょうが残りは労働者に還元されること無く企業利益として内部留保と一部は株主還元に回るでしょう、それは当然の事ながら余剰生産分の消費力増加には繋がらないのです。しかし企業としては生産効率の向上が必ずしも消費量の増大に繋がらなくともその場合は「労働力の削減(失業)」として利益の増大が見込めるのです。
 消費者還元として価格低下に回された一人分は消費量の増加要因に成りますが、残りの3人分は消費原資が担保されないのです。生産し交換し得た貨幣は何れかの経路を通して、生活経済市場に還流させなければ再消費の原資を奪う事に成りこれは何れ更なる雇用の減少として返って来る事に成ります。企業の内部留保や金融機関の資金が、「投資」と言う消費行為に結び付くのではなく資産運用と言い換えられた「投機」と言う不動蓄積に回っているのは、昨今の投機物品の高騰に現れている通りです。
 「生産≠貨幣≠消費」と言うバランスの崩れた状況では、「生産」部分では失業が、「貨幣」部分では「不動蓄積資金」の齎す原材料インフレ或いは消費デフレの何れかかその両方が引き起こされてしまいます。このような状況は自滅的ですから、「不動蓄積資金」は外の社会へ出ていかざるを得ません。金本位制放棄は『金と言う希少金属の「資源制約」が経済発展の限界』と成った為ですが、不換貨幣量は経済規模に制限されますからそれ以上の「不動蓄積資金」は自分の首を締めることに成るのです。

 「不動蓄積資金」の容認される貨幣市場資本制度は閉鎖環境では自ずとその活動に制約が在るのです、自然界に於て「ある種属の増殖が餌の量に制限される」のと同義の制約が内包されます、即ち貨幣量は経済規模に対して短期的には中央銀行により一定ですから、総貨幣量-不動蓄積=流通貨幣量で経済規模が流通貨幣量の減少に引き摺られます、貨幣が一点に蓄積されれば其の他の点には貨幣は無くなります、これが極限にいたれば恐慌となるのです。(.3)

 その経済社会から一定量以上の貨幣を「不動蓄積資金」とすれば、その経済社会自体が崩壊壊滅してしまうのです。その為「不動蓄積資金」は新たな「餌」を求めて外部へ向わざるを得ないのです、其れが「グローバル化」の正体なのです、如何に美麗字句を並べようと理屈を付けようと変りようの無い事実なのです。
 又、「不動蓄積資金」に取って自由主義の極限理想は「無政府」です、或いは、自らが全ての権力を握り「民主主義的義務」を負わない「独裁王」と成ることです。当然ながら「各種義務を負う民主主義政府」は担いたくないでしょう、少なくとも民主的に決定された「法」の遵守を装わねばならず煩わしいだけです、政策的に「規制」と「国境」さえ無くしてしまえば「不動蓄積資金」にとって政府など無いのと同じです、これが新自由主義派の理想なのです。自らの王国の中では自らが法となるのですから。その凶暴さは途上国でこそ発揮されます、途上国ほど民主主義は弱いからです、その痕跡はここで述べるまでも無いでしょう。
 当然の事ながら、「不動蓄積資金」の持ち主にとって最も効率の良い増殖方法は実物経済での手間暇の掛かる「投資・生産」では有りません、貨幣其のものを取引する或いは商品投機市場などでの「安値買い・高値売り抜け」です。このような生活市場への寄生行為である投機を他人の貨幣を預かっている金融機関が行うのはとんでもない事です。しかも「投機市場で利益を得た」と言う事は、誰かが同額の損失を蒙るのです、時系列は異なる事もありますが、逃れられない絶対的事実です。
 これを金融機関同士が遣り合って居るのです、他人から預かった貨幣でです。(・1-57P)
 金融機関は投資に特化し、設備投資や人的投資以外の「投機」に資金を投入させては成らないのです、他人のお金を預かる以上最低限の義務でしょう。
 「投機」は生活市場に直接悪影響を与える「商品市場」や「貨幣市場」だけでは有りません、「株式市場」も配当期待では無く値上がり期待で参加すれば「投機」です。
 まずは金融機関(ファンドも含む)による「投機」は禁止しなければ成らないでしょう、その上で「投機」は競馬や競輪・競艇・宝くじ等と同等のマネーゲームなのですから投入時点で同等の課税が必然でしょう。

 「投機資金」は元々その所有者にとって当面「生活上必要が無い」貨幣が充てられます、当然、そこで得られた収益の貨幣も「生活上必要が無い」のです(不動蓄積)。詰まり限界消費性向(.2-202p)から見ても生活経済市場に還流する事は殆ど無いのです。それもIT化を得て国と言う垣根を超えて、瞬時に地球上の何処へでも移動してしまいます、国境を越える資金の90%程は「生産・消費」に関らない投機資金ですから、其れだけ「貨幣の増殖機能」の齎す「生活経済」への「寄生」と言う被害範囲と深刻さを拡大してしまいます。

 (「投機」は物価安定に寄与するビルトイン・スタピライザーだとする欺瞞論を唱える向きも有りますが、いわく「安い時に買い、高くなると売る、その差益が儲けである、従って物価の安定化に役立つのだ」と主張するものですが、これは事実を糊塗する論に過ぎません。
 投機者が買うのは「今後値が上がる」と判断した時なのです従って更に釣り上がります、売るのは「今後値が下がる」と判断した時なのです従って更に落ち込みます。彼らの理想は底値で買い、天井値で売ることなのです。)

 一般に認識の外に置かれている「経済の基本とは物々交換」だと言う事を再度認識しなおす必要が有るのです。詰まり、「貴方の商品と私の商品を交換する」事が経済なのです。しかし現代では生産性への追及から資本集積型専業化が進行していますので物々交換では交換自体に手間が掛かりすぎ不効率なので「貨幣」を交換財として使用します。すると私の商品を供給して得た貨幣は同額を他人の商品と交換しなければ、失業が発生してしまう事が判るしょ
う。逆に言えば、失業が発生していると言う事は何処かで供給だけして消費をしていない人が居る事を証明しているのです。(調整的失業を除く)
 
 基本的に貨幣市場資本制度は分配の偏在を奨励します、詰まり本来の機能として不動蓄積を包含しており、その意味で「ネズミ講(無限連鎖商法)」と同義なのです。
ハッキリ言えば誰かを貧乏に貶める事で富者を出現させる機能こそが貨幣市場資本主義制度の、新自由主義経済制度の根本機能と言い換えられるのです。

 これを合法として理想として奨励しているのが「新自由主義」的資本主義経済制度なのです。「貨幣経済」システムへの寄生行為そのものです。 

 さて、思い出してください。
市場経済の有史以来続いていた金本位制が何故20世紀に放棄されたのでしょうか、その原因と同様の事が現在の世界経済で起きているのです。
 ここで「同じ」としないで「同様」と範囲を広げたのは見かけは同じでも前者と後者では全く違うものが原因だからです。
 金本位制放棄は『金と言う希少金属の「資源制約」が経済発展の限界』と成ったからですが、21世紀の現在は「貨幣への貪欲」が原因として経済の限界を作っています。



Ⅲ 経済と経営

◆「経済は制度」

 「経済学」等と言われると如何にも、自然的自発的な社会現象が有る様に思われるでしょうが、そうでは有りません経済は人為的な「交換行為」に過ぎません。
 其れも基礎的に法律により制度化されたシステムなのです、約束事に過ぎないのです。その約束事の範囲において人は「如何に行動するか」を研究し経済の目的に沿った方向への道筋を示すのがマクロ経済学であり、それを法的制度的に実現するのが政治の役割の筈なのです。そんな「経済理論」に於いて唯一例外的に、素朴な原理現象を持つのが「貨幣」です、その余りの素朴さに注目もされず貨幣価格にばかり目を奪われ、勢い人々の認識の外に置かれるのが「貨幣の原理」でしょう。(.4)

 私は個人的には、ミクロは「経済学」とは言うべきではないと考えています、一国全体の経済を対象とするマクロ「経済」と、一経済主体(一企業や一個人)の欲得を基準とするミクロな「経済」行為では性格も発想も意義も余りにも違い過ぎるのです。「合成の誤謬」と言う言葉に代表される様に「個人個人の最良が全体への最悪の選択になる」事も有るのは事実です、現在のドル&ユーロ安・円高も良い例です個々の主体が外貨の価格低下不安から円買いに走っているために国内経済は悲劇に見舞われています、所謂デフレスパイラルも判り易い例です。それを共に「経済学」で括るから一般国民が恣意的な欺瞞に嵌められるのです、ミクロは「経営学」なのです、企業にしても家庭にしても個人にしても、その財布の経営を行う為の効率的方法を考えるのですから「経営学」であり、それは決して全体の利益を目的とはしないのです。一国全体の経済運営の為の制度を考える「マクロ経済」、即ち「経済学」とは次元が違うのです。これを一緒くたに「経済学」で括るから、個人的利益の追求(我欲)を旨とする「経営学」的には正しくとも、一国の経済制度の運営を旨とする「経済学」的には大間違いな政策が、一般的無知を悪用して政界に蔓延る事に成るのです。

 政界で一時期頻繁に聞かれた「入りを計りて、出を制す」と言うのは経営の論理です。企業経営者などを政策決定に重用した為にこんな経営的には正解でも経済的には大間違いな論理が蔓延ってしまったのです。
 では、政府の運営する経済に於いては如何表現されるでしょうか、「出を計りて、入りを選ぶ」でしょうか、現在の国民生活の問題と解決への必要な額を捉えたらその問題を解決する所から取るのが正解でしょう。すなわち、インフレならば消費貨幣から、デフレならば不動貨幣からと言う事です。

 (「投機資金から過大な税を徴収しようとすれば、資金は海外に逃避するだけで国内では資金不足が起きてしまう」、所謂キャピタル・フライトが起きて「企業の投資資金」が調達できなくなる、と言うのですがこれも欺瞞です。
「投機資金」は投機(博打)資金であり「投資資金」とは違うのです、お札に投機用とか投資用とか印刷されてるわけではありませんが、上でも述べたようにデフレ時には投機資金が手間暇の掛かる「投資・生産」へ投入される事は殆ど無いのです。
また、海外へ逃避するには円をドルに替えなければ意味がありません、詰まり円が逃げる事は出来ないのです。
ドルの様な基軸通貨では無い円は其の侭では国際移動はし難いのです、従って円売り$買い=円安傾向を齎します、銀行に有るデター上のドル数字が小さく成るだけなのです、その程度で生活必需品への寄生を排除出来るなら大歓迎といえるでしょう。)

 今後若し貴方が、もっともらしい新自由主義論を聞いたら、そしてどんな屁理屈を並べて居ようと不動蓄積や投機を正当化する文章に出会ったら、思い出して下さい。

 「貨幣を受け取ったら、それは早期に誰かの生産物と交換されなければ成らないのだ、と言う事を」=貨幣の原理


◆「間接金融はターボ装置」

 貨幣を考える時忘れてならないのは銀行が果たしている「信用創造」と言う機能です。銀行だけが持つ「決済口座」が「実貨幣」の数十倍もの「仮想貨幣」を生み出します、市場が「好景気が継続する」と期待した時には過剰に、「不況になる」と判断した時には過少に成ります。
 端的な例がバブルの端境期に私達を襲っていますから判り易いでしょう、バブルの最中には銀行は預金残高の23~24倍もの貸付残高を誇っていました。それでもインフレは起きなかったのです、それ位わが国の生産効率は高いのです、或いは生産から得た所得の内消費に回る貨幣が少ないのです、言い換えれば貯蓄率が高いとも言えます。しかし、バブルの崩壊後は一気に逆転します、「貸し渋り・貸し剥がし」等により過剰供給されていた「仮想貨幣」は激収縮します、それを見た市場は予防行動を採りますから更に生活市場の貨幣が激減してしまったのです。現金に拠る直接金融はこの様なターボ効果を持ちません、通常の乗数効果だけなのです何故なら融資時点で融資額相当の現金が必要だからです。又、企業等の発行する手形や小切手等の代用通貨もバブル期に於ける過剰流動に加担します。

 この現象を見て日銀が直ちに不足分の貨幣を生活市場に補充すればデフレは無かったのですが、当時既に新自由主義的政策による莫大な利益を享受していた勢力の抵抗でこれをしませんでした。因みに、日銀の委員は各銀行から選出されています、貨幣の番人がインフレを嫌いデフレを無視する原因はこの人選に有るでしょう。又、中央銀行による金融緩和は金利の引き下げか、国債の市場買い付けとして行われます。
 デフレ状況で金利が下がっても企業や金融機関は投資案件を見出せない状態なのですから、低い金利で借りて海外の高金利先で貸して利ざやを稼ぐ位しかないでしょう、国内の実物生活経済市場には回らない訳です。
 市場の国債を買い付けても元の国債所有者は殆どが金融機関と高資産家ですから、同じ事になります、やっぱり実物生活経済市場に回る経路は無いのです。その代りに政府が遣ったのが企業&高額所得者減税です、「減税によって高額所得者の税負担を減らせばその分消費が増える」等と言う大嘘を撒き散らして。この政策は更なる「不動蓄積」を増加させる事は明らかです、これが失われた20年の確定に大いに寄与しました。

 この不動蓄積はその後直接・間接(銀行・ファンド)に投機市場に流れ込み原油・原材料・食料の高騰を招いたのは周知の事実です。


◆「商品輸出とは相手国での失業要因」(PTT条約の齎すもの)

 市場資本主義経済(無限連鎖商法)の行き詰まりから「円」の記録的高値を招いています。経団連や小泉・竹中等の市場原理主義者が国際(輸出)競争力を高める為のコストダウンと称して労働分配率を低下させた結果国内消費力はいよいよ低下し、輸出依存を高くせざるを得ない所へ追い込まれ、さらに国際収支の継続的黒字から通貨高になり更なる労働分配率を引き下げる、その分税収は低下して政策選択の幅を狭め動きが取れない。担税力のある所得への減税が投機資金の増大を招き、原材料価格等の高騰で生活経済への更なる寄生を許す事にも成っています。

 国際(輸出)競争力の為に無理なコスト削減をすればそれは国内での消費力の低下に成ります。派遣労働等の不安定雇用はワーキング・プアを生み、失業者をも大増産し現在戦後最悪の相対貧困率を生んでもいるのです。
 継続的な国際収支の黒字は変動為替制度では通貨高により輸出額の減少と言う形で調整されるのです、それを更なるコストダウンで避けようとすれば国内消費力の更なる減退に成るのは当然過ぎるでしょう。輸出額と輸入額は均衡している事が継続的な経済発展の絶対条件なのです。

 リカードの「比較優位学説」に見る問題点を考えて見ましょう。

 「日本での小麦1t当たりの生産費と比較した、PC1台当たりの相対生産費は、アメリカでのPC1台当たりの相対生産費よりも低くなっている。即ち日本では、一台のPCを生産する為には、1tの小麦を生産する労働の15倍(120時間÷8時間)の労働を必要とする。一方アメリカでは同様に20倍(100時 間÷5時間)労働を必要とする。即ち日本はPCの生産において、絶対劣位では有るが、比較優位を持っているのである」
 従って日本はPC生産に特化し、アメリカは小麦生産に特化すれば合計生産量は増加する、増加分を輸出し合えば双方とも供給を増やせる、と言う物です。

 この例は現実の事象を極端に捨象してあり、簡単に見ても幾つかの問題点が有ります、その一つは、現在の生産量が需要量に見合っているのか、不足しているのか、余っているのか、と言うことです。
リカ-ドがこの理論を立てた 1800年頃は、殆ど総ての生産物が潜在需要を下回り顕在需要さえも下回っていたのです。しかも生産要素の中心は労働力ですから増産可能なあらゆる方法を取るのは、そのまま社会の普遍的利益に直結したでしょう。しかし、現在ではこの論理を其のまま当て嵌めるには、余りにも資本集積による機械化や技術力に依存する収穫逓増の機能が強く働きすぎるように成っており、新自由主義税制とあいまって腐ったり陳腐化したりする事の無い「貨幣」の不動蓄積に資するのみとなる恐れが強いのです。「比較優位説」は古典派の中の古典とも言うべき「セ イの法則(生産されたものは総て需要される)」が根拠と成っていますから、当然消費サイドへの考察は排除されてしまうのでこんなトンでも理論に成るのです。両国に於いて生産物が現状でも余っている(デフレ)なら、特化する事で生産性が高まれば更なる失業が発生してしまいます。一般に生産性の向上分は労働人員の削減により企業収益の向上として処理されるのです。其のまま労働時間の短縮として或るいは労賃の増額として労働者に分配されはしません。
 
 更に、比較優位産業に特化する事で、比較劣位産業を永久に失う事に成ります。この意味は、日本を始めアジア地域に置ける驚異的発展を遂げた各国が、幼稚産業を貿易障壁により保護する事で、世界レベルに迄キャッチアップさせた成功例を真っ向から否定する事になります。詰まり、先進国による絶対優位の固定化に資する訳です。其れが後進国をして、先進国の言いなりでは搾取されるだけで経済力の向上に繋がらないとの不満を募らせている原因の一つなのです。また、比較劣位だからとして食料生産を失って主権国家を維持できるでしょうか、安全保障上必要な工業を失って、全量を輸入に頼る独立国など想像すら出来ません。
 又、輸出される比較優位産業とは生産効率が高い訳ですからそこで雇用される労働力は輸入される比較劣位産業から排出される労働力より少ない事にも注意が必要です。輸出増産に伴うあたらな雇用より輸入崩壊する産業から生まれる失業者の方が多くなる訳です。国内の労働力が不足している時ならこの失業者は別の産業に雇用されるでしょうが現在のようなデフレ状態では長期か永久失業者を産みかねないのです。これは相手国にも全く同様の問題を引き起こします。

 二つ目は、この例では(リカードも同じですが)物物交換に成っていることです。実際には「貨幣」に 拠って清算されますから、通貨レートが問題に成って来ます。特に途上国に置いては経済規模が小さい為、大国から見れば僅かな資金移動でも通貨レートに大き な変動を齎します(直近ではアジア通貨危機)。その為、貿易が必ず利益を生むとは言いきれない部分が有るのです。為替差益(差損)が発生する事をご存知であれば容易に想像がつくと思います。途上国側から都合の良いレートを維持する事は殆ど不可能なのに、先進大国側からは其の気に成れば可能なのです。

 当事国の国内政治に依拠する問題点を除いても、解消不能なこれらの不経済を内包するのが貿易なのです。現実には先進国が拠り多くの利益を受ける事は、恒常的貿易黒字を持つ日本が、貿易立国であるとされる事実からも理解される所だと思います。しかし、中長期的には為替レートで産業力格差は中和されますので、企業の国際間移動が自由な現在では、通貨高=雇用流出と言う結果に繋がり国内消費力の更なる低下を齎します。

 ではリカードの理論は「全く出鱈目」かと言えば、そうでは有りません。現在でも挙げたような問題を解消できる特殊な状況では、有効なことも有ると思われます。また、当事国で生産不能な財や、不足している財などは貿易に拠って供給される事で輸入国の国民福祉に貢献するでしょう。又物々交換が想定されていますから所謂貿易収支は双方とも+-ゼロに成ります。
結論として貿易は適宜、政府による関与を必要とする、最低自由化の範囲は政府の決定権を保証する必要が有るのです。

 このところのWTOの会議が反対派によって、異常な状況下で強行される事になったのは、この様な欺瞞に気付いた庶民の抵抗なのです。




Ⅳ 消費税UPの結果は

 新自由主義においては「所得税とは所得への罰金である」とか「企業課税は2重課税である」とかの論理がなされます。我が国に於いてもこの論理に従って企業減税が重ねられていますが、これこそ我田引水の為にする理論です。

 まず「税金とは所得への罰金である」から見て行きましょう。
 私たちが社会に生活している以上誰もが共通して受ける公共サービスは無くては成りません、例えば公園とか道路とかその照明とか警察とかです。これらの経費を負担するのが税です、それは沢山所得すれば直接だけでなく当然間接的累積的にも沢山の公共サービスを利用した事になります。
 お店で考えて見ましょう、沢山集客し沢山所得した人は間接的に沢山の公共サービスを利用した事になります、若し道路が無ければお客さんは極近くの人だけしか来店しなかったでしょう、途中に治安の悪い所が有ればそこを越えて来店する人は来なかった可能性が高くなります。
 その負担を一律にしたら、沢山所得した人はフリーライダーだと言う事に成ります。
 特定の人しか利用しないサービスはその分類に問題が有るとしても、一応受益者負担の原則で個別的に利用料として負担を求められています。
 多く所得した人は消費面でも「限界消費性向」の範囲では有りますが、やはり多くの公共サービスを利用する事になります、それは上の例の逆ですから判り易い筈です。従って多く所得した人が高い税率で負担するのは当然の事なのです。

 次に「企業課税は2重課税である」を見てみましょう。
 彼らの論理では「企業所得に課税されれば企業は株主の持ち物であり、更に株式配当に所得税が掛けられると2重に成るのだ」と言うものです。ここで彼らは企業とその株主を一体不可分の経済主体であると定義しているのです、だとすればこの論理は成立します、しかしこれは如何見ても可笑しいですね。
 端的に、株式会社が倒産した時を見てみましょう、株主は持ち株分以上の負担は免除されます、詰まり株式会社とその株主は別の主体だからです。
 因みに、個人企業の場合は事業税を負担していますが所得税は勿論負担しなければ成りませんし、倒産すれば事業主は全ての財産を返済に充てなければ成りません。

 以上に依って、企業所得課税と株主所得課税は2重とは言え無いのです。

 さて、2重課税問題を考える時「消費税」を無視する事は出来ません。
 まず貴方は所得した時に所得税を負担します、その同一主体である貴方が消費する時に更に「消費税」を負担させられる訳です。
 これこそ2重課税以外の何者でもないでしょう。

 勿論、別途消費税に付き纏う「逆進性」と言う大問題が有りますので、今更ながら一応触れておきます。
 高額資産家や高額所得者にとってこれは巧妙な脱税、或いは逃税のシステムとしか言いようの無い税なのです。「限界消費性向」とは言いがかりの付けようもない事実です、例えば年収10億のカルロス・ゴーン氏は次年度に幾ら消費するでしょうか?、彼は社長ですから日常の消費は殆ど経費負担です。自らの所得から支出する額は幾らも無い筈です、所得の内「消費課税」される部分は非常に少ないのです。これが経団連や高資産家などがマスコミ等を利用してまで声高に消費増税による負担で財政均衡させよと唱える理由なのです。比較してワーキング・プアと言われる人々は年収200万足らずです、全額消費するしかないでしょう、総所得に対して消費課税される事になります。
 近年の研究でも日本においては年収750万前後に限界消費性向の基点があるとの結果もでています。(.2-202p)
彼らの消費仕切れなかった貨幣は銀行や箪笥に留まって居る事は有りません、資産運用と言う名の投機市場に投入されて生活経済市場への悪影響の元と成っているのです。
 更に、現在は消費不足のデフレ状態に有るのですから税制も経済政策の一環としては国内消費力の増強に資するよう設定すべきなのです。
 税として国に入った貨幣は消費財源ですから「民間消費-消費税=政府消費」となり、国内総消費額は一定に終わります。もっとも景気=気分(情緒的)ですからこの面の影響からは逆に総消費額は減少する可能性が高いと思われます。上の言い方を借りれば「商品が売れないデフレなのに、消費に罰金を掛ける」事に成ります、政財界や官僚や主流と言われる経済学者等の所謂専門家の知見の出鱈目振りは原発問題で露見したものと同じ程度だと言う事に成ります。
 現状では財政均衡や社会保障費の為の原資は「不消費貨幣」に求めるのでなければ、一国の経済政策とは言えないと言い切れます。



注.1
経済産業省-経済社会政策の基礎理論に関する調査研究


注.2
「22年度年次経済財政報告」(内閣府)


注.3
日銀マネタリーベース(2011年12月)


注.4
「貨幣の思想史」 内山 節著 新潮選書






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